「ガンディー 獄中からの手紙」 生きざまに学ぶ

ガンディーはインド出身の宗教家・政治家であり、第二次大戦後にインドがイギリスから独立するのを宗教的信念によって導いた方です。

 

「塩の行進」にはじまった第二回非協力運動を先導した罪で投獄されていたガンディーは、彼の主催する修道所の弟子達に向けて複数の手紙を書きました。その手紙等を弟子が編集したものが、本として広まっています。

 

ガンディー 獄中からの手紙 (岩波文庫)

ガンディー 獄中からの手紙 (岩波文庫)

 

 

本書の後半では、ガンディーの生涯が簡潔に紹介されています。それを読むと、彼が一度ならず何度も命を賭けて愛を貫き、平和や平等を実現しようとしたことが分かります。彼の生き様は現代でもなお、私達の心を揺さぶります。彼の生き様や思想、情熱を理解した上で手紙を読むと、貫徹した博愛を感じることが出来ます。

 

世界中のあらゆる宗教を木に例え、様々な宗教は枝葉であり、根本は一つの幹であるとする独自の宗教観は、洗練されているし、宗教間の理解と協力に向けた希望のようなものを感じさせてくれます。きっとガンディーは、宗教間の対立に深く心を痛めていたのではないでしょうか。

「伝習録」2 批判精神について

伝習録」では、「良知」を磨いて実現し、聖人に至る方法について様々な角度から説かれています。そのような王陽明の言葉の中から、僕が普段から思い出し、かみ締めているものを一つ紹介します。

 

以下引用

 

「学ぶとはぜひとも我が身に反省することだ。もし、わけもなく他人を責めたてるなら、他人のあらばかり目について、自分のまちがいは見えないものだよ。もしも我が身に反省することができると、はじめて自分にはたくさんの至らぬ所があることに気がつくから、もはや他人を責めたてるゆとりなどないものだ。

 

中略

 

きみは今後、他人の是非をあげつらうことをしないことだね。そもそも他人を論難しようと思ったときには、それこそ一つの大きな私的感情だとみなして克服してこそはじめてよいのだ。」

 

 

伝習録―「陽明学」の真髄 (タチバナ教養文庫)

伝習録―「陽明学」の真髄 (タチバナ教養文庫)

 

 

引用ここまで

 

 王陽明は生前、朱子学を擁護する学者等と日常的に激しい論争を繰り返していたと想像されます。思想家として有名になるについて、激しい誹謗中傷を受けました。その王陽明が、他者批判よりも自己反省に徹していたというのは、驚きです。これは、王陽明の人徳の高さを物語っているのではないでしょうか。

 

僕は学術の世界にいるので、大学のゼミや学会、論文等、周りで日常的に批判が行われています。Twitterを開けば、つねにどこかで言い争いが起きています。研究者の中には、少し批判めいたことを言われたら、熱くなって言い返す人が多くいる気がしています(当然、冷静で尊敬できる研究者もたくさんおられるのですが・・)。

 

最小限の批判はもちろん必要ですが、感情的になったり我が出て、「理詰めで相手を言い負かせてやろう」等という気持ちが少しでも起きれば、その時点で良心の太陽が我欲の雲で覆われていると思います。僕は科学的な批判精神も理解しながら、論理より常識と礼儀、良心を尊重したいと思っています。健全な人間関係・信頼関係があってはじめて、批判が活きるはずです。

「伝習録」1 良知とは

王陽明(1472~1529年)は中国の思想家であり、「陽明学」の提唱者として有名です。朱子学に異議を唱えて陽明学を生み出しました。

 

伝習録」は、王陽明の言葉を弟子たちが書き留めて編集したものです。

 

王陽明の考えの神髄・・修己の核心は、「良知」を発揮する、という一言に尽きると思います。

 

王陽明の言う「良知」とは一体何でしょうか?僕は人文学は全くの素人なのですが、「伝習録」(吉田公平、たちなば出版)を手掛かりにして、「良知」の正体に迫ってみたいと思います。

 

 

 

伝習録―「陽明学」の真髄 (タチバナ教養文庫)

伝習録―「陽明学」の真髄 (タチバナ教養文庫)

 

 

以下引用

 

・善も悪もないのが心の本体である。善悪が結果する場が意である。善悪を判断するのが良知である。善を実現し悪を排除することが主客関係を正すということ

 

・いったい根のない人がいるものか。良知こそ天が植えた霊妙なる根であり、もともと間断なく生き生きとしているものだ。しかし、私的感情にとらわれて、良知という根をそこないふさいでしまうと、良知は芽を出して生育することができなくなるのだ

 

引用ここまで

 

良知とは私達の心の中に先天的に存在していて、善悪を知る「魂」のようなもののように思います。良知は太陽のようなものであり、欲望の雲で空がおおわれてしまうと太陽である良知が隠れてしまい、悪い判断をしてしまうようです。

 

良知とは、誰もがもつ良心のこと・・そう理解したなら、特段難しいことはなさそうです。

「統計学の図鑑」

楽しい統計学の本を見つけました。内容は一般書というより専門書です。統計学をある程度学んできた人が、知識の整理・再理解をするのに適しています。初学者が一から統計学を学ぶのにも、最適とは言えませんが十分に役に立つと思います。

 

僕はこの本を凄く気に入りました。なんせ図が多い。視覚的に直観的に理解しやすいように作られています。数式も出てきますが、説明の主役はあくまで図です。高校のときに理科や社会の資料集を暇つぶしにながめた感覚で読めます。あと、ベイズ統計にもかなりページを割いて説明してくれているのが嬉しいです(10ページ以上)。

 

 

統計学の図鑑 (まなびのずかん)

統計学の図鑑 (まなびのずかん)

 

 

『くらべてわかる淡水魚』

自宅近くの図書館に置いてたので、借りて読んでみた。

くらべてわかる 淡水魚

くらべてわかる 淡水魚

 

 

同定が難しい種の写真を並べて見せて、「この種とこの種とを見分けるポイントはここだよ」みたいな解説があるのが嬉しかった。親魚と合わせて未成魚期の個体の写真も掲載されている種が多く、参考になる。フナの解説とかは、間違っているわけではないのだが、果たしてこれでいいのかとも思った。

 

読んでて楽しいし、値段が手ごろなので、買ってもいいかも。

『自省録』

仕事の行き帰りの電車・バスの中で本を読んでいます。最近は専ら古典です。仕事帰りに古典を読んでいたら、その日一日ゴチャゴチャ考えていたことの答えが見つかる時があって、結構楽しいですね。

 

今は「自省録」(マルクス・アウレーリウス)の訳本を読んでいます。

 

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 

 

マルクス(121~180年)はローマの皇帝であり、この本はマルクスの備忘録(!?)を訳したものです。備忘録というか、思索したことを書き連ねたメモ書きです。人に見せることを想定されずに書かれているため、本としては構成が整っておらず、難解な文章が多いです。

 

それでも、いまだにずっと読み継がれている古典です。

 

マルクスがいかに純粋な気持ちで生きていたのかが伺えます。僕はこの本を読んで、皇帝に対するイメージが変わりました。

 

本書の所々に、「死ぬこと」について出てきます。「目に見えるものは何もかも変化していくから、死とは自然なもので、自分の体の元素が分解され、また元の自然に帰っていくだけのことなんだ」みたいな記述が頻繁に出てきます。僕は最初、マルクスが死を恐れていて、自分に言い聞かせているのかと思いました。

 

でも、もう一つの仮説が思い浮かびました。マルクスは、子どもが小さいうちに亡くなっているのです。もしかしたら、自分の子どもの死に対する、マルクスの葛藤や気持ちの整理の痕跡なのかもしれないと思いました。

 

僕が気に入った言葉をいくつか引用して紹介します。

 

・友人が抗議を申込んで来たならば、たとえそれがいわれなき抗議であろうともこれを軽視せずに、彼を平生の友好関係にひきもどずべく試みること。

 

・もっとも長命の者も、もっとも早死する者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。

 

・あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。

 

・社会を損なう者にたいして腹を立てるべきではない。「彼はなにを見あやまったのだろう」と問うべきである。

 

・もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。

 

・善事をなして悪くいわれるのは王者らしいことだ

 

・自分に起こることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。それよりも君にふさわしいことがありえようか。

『正法眼蔵随聞記』

正法眼蔵随聞記」は、道元禅師が弟子達に話したことを、弟子の懐弉(えいじょう)禅師が書き留めたもの。仏道を得るための修行の心がけ等について書かれている。

 

禅宗仏教にあまり関心がなくても、「教育者としてどうあるべきか」、「夢を達成ための姿勢」、「人付き合い」に関する本として、是非一度は読んで頂きたいと思う。道元禅師が、人の心情を深く理解して、弟子や先輩達と上手に接してきた様子が分かり、大変参考になる。

 

少しだけ言葉を引用して紹介します。

 

・自分が愚かであるからとか、自分はにぶいからとかいって、卑下してはならぬ。この世に生きてあるうちに志を立てなかったら、いずれのときに志を立てるというのか。

 

・たとい、打たねばならぬ者を打ち、叱り責めなくてはならぬ者を叱り責めるとしても、決して悪しざまに悪口をいってそしりとがめるなどという心を起こすことがあってはならぬ。(中略)ましてや、そのような位置にないのに、人の短所を言い、他人の過ちをそしるのは、よろしくない。

 

・たとえ自分が道理をもっていっている場合でも、相手が間違ったことをいったのに対し、これを理づめで攻めていい負かすのは、いけないことだ。次に、自分では、たしかに道理と思っても、「私の方が間違ってると思います」などといって、負けて引きさがるのも、軽はずみというものだ。ただ、相手をもいい負かさず、自分の方の間違いだとしてもしまわずに、決着をつけずそのままにして、やめてしまうのがよいのである。耳に聞きいれぬようにして忘れてしまえば、相手も忘れて怒らないものである。

 

・慈悲の心があり道を求める心があって、しかも愚かな人々に悪口をいわれ非難される。それは少しも気にすることはない。むしろ、道をはげむ心がないのに、有徳な人と思われることがないように、このところを、よくよく気をつけねばならぬ。

 

・自分に従う侍者や従者であるからといって、大声で叱り責めたり困らせたりしてはならぬ。

 

・本当に立派な人は、立派な人であるということをあらわさぬようにする。

 

正法眼蔵随聞記 (講談社学術文庫)

正法眼蔵随聞記 (講談社学術文庫)